偽物語の最終回 「つきひフェニックス 其ノ肆」は正直よかった 【言葉の束縛からの解放】

化物語が結構好きだったので、録画しながら偽物語をみてたんですが正直、路線?が違いすぎてみるのがつらかったのですが、最終回が結構よかったので再度最初から見直しました。

他の人はどうかは分かりませんが、一カ所でも好きになるとほかの欠点やよくないことまで許容できるというか、好きになれるようです。結構、いい加減な感じ。


本物と偽物はどっちが価値がある?

本物とそれと全く同じ区別がつかない偽物、どちらの方に価値があるか。

余弦:偽物より本物に価値がある
忍野:同価値
貝木:偽物の方が圧倒的に価値がある。偽物は本物になろうとする意志があるから偽物に価値がある

参考:偽物語 第11話(最終回)「つきひフェニックス其ノ肆」感想 - コツコツ一直線


性善説と性悪説

性悪説か。性善説死っとるやろ。中国の哲学者孟子の思想や。人は生まれながらに善性を有するちゅうあれや。性善説が理想やとするなら、性悪説は現実論や。人間の本質は欲望であるっちゅう身も蓋もない荀子の思想やね

故に、人が善行をなすならば、それは本性ではなく偽りによるしかない。そう看破した。偽りであり、偽善によるしかないと

善はもとより全て偽善であり、だからこそ、そこには善であろうという意図がある

参考:偽物語 (最終話) -マンガとアニメの感想録とか - Yahoo!ブログ


言葉の束縛からの解放

言葉遊びやレトリック、言葉のレッテル貼りなどで、行動や思想を束縛してはいけないと僕は思います。ある意味、それが「言葉の力」なんだとおもいますが、言葉というものがそれほど力を持っているとは気づきにくいため、人は言葉に縛られがちなんだと思います。

本当は、言葉は人に行動や勇気を与えてくれるはずのものなのに、最近はそういう傾向が少ない感じがします。だからといって、口が達者で魅力的な言葉を繰り出す詐欺師がすばらしいわけでもないとは思います。


それは、本当の悟りではない?!

『夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。華叟は「それは羅漢(狭い範囲の悟り)の境涯であって作家の衲子(すぐれたはたらきのある禅者)にあらず」といわれた。そこで師は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。華叟は「お前こそ真の作家だ」といい投機の偈(悟りの詩)を作って呈出するようにいった。「凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢のおこる以前のところを即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。」』
一休さんのくにプロジェクト

それは偽物だ(本物でない)ということばで、この件を思い出しました。


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