科学者としてダメというが、どの辺がダメなのか誰か説明して欲しい

科学者としてダメ?

菊池誠氏は科学者としてダメというが、どの辺がダメなのか誰か説明して欲しい - ARTIFACT@ハテナ系

ここまで一般化すると何がダメなのかは説明できないだろう。
また今まで、この手の誰かに説明してほしいという感じのことに、懇切丁寧に説明された場合でも多くの場合は、聞く耳持たないというか聞こえない場合のほうが多いような気がする。

それは、すでに「立場」や「利害」に縛られていて聞く耳を持てないからだと思う。これは特定の人がそうというわけでなくて、私も含めて、ほぼすべての人がそうだと思ってもよい。ただ、そのことを意識することで、ある程度はその呪縛から逃れることはできる

仮に、科学者としてありがちな態度がダメだとする場合は、どうでしょうか?
そのようなことはありがちですよね。コンサルトしてありがちな態度で、そういう部分はダメだとと総合的に経営者が判断して決断するとかみたいな感じで・・。

また、ダメな点も価値観によってそのダメさ加減が全然違います。ほとんど問題ないと考える人から、いろいろですよ。


交渉学による観点も必要

残念ながら、いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論の(全てではないにせよ)少なくない部分にも、「立場」と「利害」の区別への無理解が見受けられます*5。エビデンスを重視して議論を進めようとする姿勢そのものは良いのですが、実験科学ないし計量科学的な「実証性」の多寡を比較することによって(のみ)異なる「立場」の優劣を判断しがちな風潮が強いことには問題があります。そもそも私の考えでは、科学とは実験や計量によってのみ成り立つものではありません*6。

しかし、ひとまずその点については措くとしても、「実証性」ばかりを秤にかけて議論を決しようとするのは、「立場」に固着して「利害」を無視する不毛な対決主義の典型であり、相手の問題意識に付き合うことを始めから拒否した外在的批判として、あまり望ましいものではありません*7。「真実」の共同探究としての科学は、誰かが勝って誰かが負けるゼロサム的な勝負ではなく、全体を前進させるようなwin-winの合意を志向するものです。ここから、「科学的」であることを標榜しがちな対決主義的「トンデモ」批判論の二重の非科学的傾向を指摘することができます。
リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground

流し読みしかしていませんが、引用先の文章が私には「良い」感じのように思います。

人はわかりやすいその人にとって心地よい回答を望む 【説得と交渉】
[原発関係]どうして意見の食い違いが生じるのか?


科学的正しさと政治的正しさ

科学的に正しいとか妥当性があることと、何かの正しさを結びつけるには、「価値観」(立場と利害)が必要なわけです。

※「多くの人が幸せになるように」というのも一種の利害です。

ただ、このことを意識できない場合は、いつの間にか都合よく科学の正しさを利用しだすわけです。これは科学でなくて、経済学でも倫理学でもなんでも同じです。

道徳的な正しさを科学的正しさで補強するのはやめてほしいと思うのと同じぐらいに、政治的決断の正しさをを科学的正しさで補強してもダメだということでしょう。

この表現がわかりにくければ、倫理的正しさ(人道的な正しさ)と政治的な正しさは一致しないこともあるでしょう。

直接関係ない何かの正しさは、大義名分とかに使うのに非常に便利で、また民衆を扇動しやすいので利用されると考えるべきかもしれません。人道的な面を大義名分に、それ以外の目的で政治的に介入することだってあるでしょう。

科学的、論理的ということと善悪は何の関係もない【倫理の問題】



どの辺がダメなのか説明できないものほど有害かも

ニセ?似非?科学でも明らかに、間違いと明確に示せるものはそれほど有害性がない傾向にありますが、そうでないものは意外と有害です。

これは、ニセ?似非?科学とかでなくても、世の中一般的な話でもそうなのです。
また、どの辺が明確にダメだと示せないということを利用して、それじゃダメだといえないですよね?という展開の仕方もまた危険な場合もあります。

考えるとは


※引用先の科学者?とは関係なく、一般論としての話ですので誤解なくようお願いします。

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