「博士の愛した数式」の中にあふれる愛について

  • 投稿 : 2015-01-02

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博士の愛した数式 - Wikipedia
オイラーの等式 - Wikipedia

TVで2度見ました。

1度目は、博士と家政婦、その息子の交流はほほえましくて、そこが印象に残ったんですね。
2度目は、博士と未亡人について部分が、印象に残ったわけです。

博士と未亡人のわけありげな関係と、どこかドロドロとした過去と、それと博士の現状置かれている厳しい状況と、その博士と「家政婦とその息子」が繰り出す雰囲気が、微妙に混ざり合ってここちいい感じになっている気がするわけです。

気持ち悪いと気持ちいいが混ざったような、不可思議な気持ちですね。

たぶん、ドロドロした人生、現状の中でも、さわやかな風が吹くような心もちでいたいと僕は最近願っているので、そういう風に受け取ってしまったんだとも思います。

以下は、検索で調べたものです。
1.博士と未亡人の関係 ->不倫?
2.未亡人が堕胎した子供は、誰の子供か? ->博士?
3.オイラーの等式の意味 ->不明
4.映画と小説の違い ->深く考えたくない場合は映画で、そうでない場合は小説がよさそう?!

そのあたりをはっきりさせたくて検索したのですが、
ほか印象の残ったものも引用しました。

引用先を読むのがお勧め。
みんな、自身が感じたものを、文章化して表現するの上手ですよね。

以下、雑多な感想

博士と未亡人の関係とオイラーの等式

「博士が愛した数式」がどの数式を指しているのかがわからなかったのですが、実は、オイラーの公式
     «eπi+1=0»
ではないかと気が付きました。小説の内容から推察できます。僕は鈍感ですねぇ。

けれども実際に博士が愛したのは義姉です。このオイラーの公式は二人の愛を象徴するものとして使われているようです。
博士の愛した数式

オイラーの等式が、博士と未亡人との二人の愛の象徴になっているのを
僕も2度めに見たときに気づきました。鈍いですなぁ。

一度目は、未亡人を博士の妻だと思ってました・・・。

映画の中では博士と義理の姉は昔不倫関係で、
堕胎している。

そのため最初、

eiπ=-1  ・・・①
※実際にはiπはeの右上に「乗」として表示される

として表記されていた。

だから他人の子どもに対しても異常なほどに愛情を燃やすんだ。
ところが、
映画の終盤に博士は-1を左辺に移項して、

eiπ + 1 = 0  ・・・②

と表記するんだ。
これが実に味わい深い。
義理の姉もこの変化によって心の垣根を開いてくれる瞬間なんだね。
右辺にあった-1が左辺の+1になっただけでちょっと心が安らぐんだよ。

否、

右辺の0こそが奥深いんだよね。
数学的には同じでも、
博士の主張する心の数学ではまったく別のものなんだね。
つまり、

①と②では違うということなんだ。
気づき - ki du ki: 博士の愛した数式。

・博士と義理の姉は昔不倫関係
・オイラーの等式「eiπ=-1」、「eiπ + 1 = 0

(2) それと、最後のエピソードも省かれていた。博士の記憶保持力はどんどん衰えて、もうほとんどゼロになる。そこで、博士は「施設」に預けられる。その施設に、家政婦さん親子は毎月、見舞いに訪れる。たまには、義姉と会う事もある。
 家政婦さんは、最後の訪問の際に、息子が、教員試験に合格し、大学卒業後は中学校の数学の先生になることを博士に伝える。
 博士にはそのことが理解できたのだろうか?
web.archive.org:独り24‐博士の愛した数式

僕が思うには、博士にはそのことが理解できなかったとは思います。
80分しか記憶が保てない時期でも、理解できたかどうか微妙だと思うんですが、博士は分かる必要がなくて、博士が伝えたかったことがそこに見つけることができるだけで十分なんじゃないかなとも思いました。


映画と小説の違い

僕は、学校の先生になったルートが登場して、昔を語る形になってるのが、なんとなく嫌でした。
まず、先生になりたて?か、若すぎる先生が、人生を悟ったように何かを生徒に伝えるという行動が、子供のころから吐き気が出るほど嫌いだったんで・・・。

なんか、押しつけがましいんですね。
年配の先生は、あまり押し付けがましくなく、そういうことを語れる気はします。

姉と博士のエピソードは、ちょっと余計だったと思う。
これもまあ、原作を読んだら納得がいくのかもしれないけど、
この映画の中ではちょっと中途半端で、雰囲気にそぐわなかった。
ただこの姉の存在が無ければ、緩急のない終始ほんわかムードになるので
必要としたのだろうけど、個人的な好みで言えば、少なくとも映画という
限られた時間の中では無い方が見やすいエピソードだったと思った。
日々想うこと。 博士の愛した数式

博士と義姉のエピソードを中心にしたほうがよさそうな気がするが
大衆受けしなさそうには思う。

ただ、ラストでルートが窓の外を見たら博士たちがいる、のまでは
いいんだけど、これは回想とか幻であればすごく美しいなと思うんだけど、
ここへ吉岡くんが登場して博士とキャッチボールしだすんだよね。
これは正直、ちょっぴり興醒めでしたね。
吉岡くんが窓から見ているだけで良かったと、個人的な好みでは思います。

だって20年近く経っていて、画面に4人いて、歳をとっているのが
ルートだけって不自然じゃないでしょうか?
どういう意図のシーンなんだろう…と思ってしまいました。
日々想うこと。 博士の愛した数式

心で感じる世界を表現していると思うので、
不自然でも、そんな感じでイイんじゃないかなぁと思うんですね。

小説の中で、博士は、虚数(imaginary number)について、次のように語っていた。
「(虚数は)とても思慮深い数字だからね、目につく所には姿を現さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」

博士は、オイラーの公式のように、目にみえないところで、みんながお互いに深くむすばれていると言いたかったのだろう。

最初は、高校中退(a high school dropout)の家政婦には、オイラーの公式の意味が理解できなかった。
家政婦は、図書館に通って勉強してその意味を理解しようとする。
博士が亡くなった後、家政婦は、オイラーの公式が書かれたメモを見ながら、次のように回想する・・・。

「今振り返っても、博士が幼い者に向けた愛情の純粋さには、言葉を失う。それはオイラーの公式が不変であるのと同じくらい、永遠の真実である。」
「折りにふれ、私はメモを取り出して見つめる。眠れない夜に、一人きりの夕方に、懐かしい人たちを思い出して涙ぐむ時に。そこに書かれた偉大な一行の前に頭を垂れる。」

他にも、素数や、完全数や、友愛数など、さまざまな数の話が出てくるが、博士の数に対する愛情がとても純粋で素晴らしかった。
いいかげん、でもいいかげん。 あるいはオイラーの公式のように、毅然としていればいいのだ・・・

小説の方を読んだほうがよいかなぁと思いました。
博士は数式を使っているだけで、伝えたいことは、本当は数式である必要がない気もするんですね。

博士の場合は数に対する愛が、人に対する愛と等しいからこそ、数式で表すことも出来るだけだと考えました。

その他の気づき

その家政婦が息子に「『その話は一度聞いた』と言わない」と諭す。つまり、何度同じ話を聞かされても、初めて聞くように聞いてあげるといこと。普段の生活のなかで普通の人を相手にしてると、すぐに言ってしまう言葉。それがコミュニケーションを阻害している。そういう自分を思い出して、そうじゃないやり方もある筈だと考えさせられた。
光洋パラダイス:博士の愛した数式

普通の人に対しても、同じ話であっても、初めて聞くかのように応対したほうがよいのではないかとふと思いました。
子供とかも、何度もおなじことを聞いたり、言ったりするような気がするけど、でも話を聞いてあげるという態度がよいのと同じかなぁと思う。

相手が大人で普通の人だと、つい、前に一度聞きましたよと言ってしまうんですけどね。



小説の方は時間が取れたら読んでみようかなぁと思います。

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