「あさが来た」の第155話の雨の演出が良かったと思う【最終話の1話前】

  • 投稿 : 2016-04-02
まだしっかりしてなあかんのに・・・(涙
何見ても・・・旦那様との事思い出してしまいますのや。
もう・・・うち、どないしたら・・・
あかん・・・寂しい・・・・寂しおます・・・」


 目の前には、あの梅の木がありますぇ。
蕾の数が増えております。あさの涙は止まらない。
と・・・・・・・ぽつんぽつん・・・と雨が・・・
雨はあっと言う間に大降りになった。


「あ・・・・はぁ・・・・びっくりぽんや

「あさが来た」 第26週(最終週) 柔らかい心 第155話 : トリ猫家族

悲しみに耐えきれず、庭先で泣いているあさに
降り注ぐ雨。2人で植えた梅の木には、花が咲
き、「わてはそばにいてるさかいなぁ」と、やさし
くその存在を教えるように降る雨に、涙、涙…。
「これからは、ず~っとず~っと、あさのそばに
いられますのやで。何泣いてますのや? うれ
しいことだすのやで~」とでも言っているようで。
「あさが来た」第155回~忘れんといてなぁ。いつもそばにいてるさかいなぁ|日々のダダ漏れ

このドラマ、(新次郎と)「あさ」の恋愛ドラマだと僕は思ってみてるので、この演出はよかったなぁと思いました。

新次郎のジンクスに「うれしい時に雨が必ず降る」というのがあり、悲しみに耐えきれずに泣く姿をみて、うれしかったんじゃないかなぁという僕の勝手な解釈です。

ドラマの味付けは、「だれも悪くない」とかそんなノリで、今時の味付けになってるのかなぁとは思います。恋愛ドラマ以外の要素では、僕自身は楽しめないドラマだったかなぁと・・・。まあ、全話みてませんけどね。

最終話の1つ前が良くできてるとか、本当の最終話という感じのは、韓国ドラマとか見ててもよくあったのでそんなものなのかなぁと思う。最終話は、エピローグみたいな感じで・・・。

嬉しい時に雨が降るというジンクス

この場面で降るのは、雪。本来、悲しい涙の場面はそれを増幅するために雨を降らすことは常套だが、「あさが来た」ではそれを封印し、新次郎のジンクス(嬉しい時に雨が降る)に替えている。
降る雪が染みる、ふゆの恋 「あさが来た」82話 - エキレビ!(1/2)

あさの妊娠を知った日、雨が降る。
新次郎のジンクスは相変わらずで、ふゆ(清原果耶)に「嬉しいことがあると雨が降る」と話をする。だが、中庭をはさんで、新次郎の向かい側にいるふゆにとっては、どうやら悲しい雨のよう。
うめ(友近)だけは、ふゆの浮かない表情に気づいてたしなめる。
最高視聴率25.8%を記録、絶好調で雨が降る「あさが来た」60話 - エキレビ!(1/2)

平塚らいてう

らいてうの在学中の日本女子大には、学校の後援者である政財界の大物たちがたびたび訪れ、学生に話をすることもあった。しかしらいてうに言わせれば、《この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどはなく、こういう種類の人たちを、とうていわたくしは偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした》。彼女が「こういう種類の人たち」の代表としてあげたのが政治家の大隈重信と、そして広岡浅子だった。

《ほかに不愉快なことで印象に残っている人に、関西の銀行屋、加島屋の当主夫人で、女の実業家として当時知られていた広岡浅子という女傑がありました。学校の創立委員としてたいへん功績のあった人ということですが、熱心のあまりでしょうが、ガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長にまでピシピシ文句をつけたりします。ある日家政科の上級生に対して、実際生活に直接役に立たないような空理空論は三文の値打ちもない、あなた方はもっと実際的であれというようなことを自分の手腕に自信満々という態度で、押しつけがましく、いかにもせっかちそうにしゃべっているのを聞いてからは、いっそういやな人だと思うようになり、とても学校の、また女子教育の恩人として、尊敬したり、感謝したりするような気にはなれないのでした》(『元始、女性は太陽であった——平塚らいてう自伝 上巻』)

この自伝は1971(昭和46)年、らいてうの亡くなった直後に出版されている。最晩年に書かれたものだから、浅子への反感は終生変わらなかったといえる。設立まもない女子大学では、後援者が来るたび学生が接待役に駆り出され、そこで率先して働く者が評価されていた。らいてうにはそれも釈然としなかったようだ。


批判者のなかには、かつてらいてうが心酔した成瀬仁蔵もいた。成瀬は新聞の談話記事で、らいてうたち「新しい女」の行動を非難している。さらに同じ記事で成瀬が「賢妻良母主義をもってもっぱら人格問題に基礎を置くという点で、日本の女子教育には欧米よりすぐれたものがある」と発言したことは、らいてうを落胆させた。


このとき、晶子の「妊娠出産は個人的なことであるにもかかわらず、経済力のない女性が国家に母性保護を求めるのは甘えだ」との主張に対し、らいてうが「妊娠出産は公的な行為であり、ゆえに母を保護することは個人の幸福のために必要なばかりか、その子供を通じて社会全体の幸福、全人類の将来のために必要だ」と反論した。
正味の話、平塚らいてうは「あさが来た」広岡浅子をどう思っていたのか - BIGLOBEニュース

時代背景もあるので、現代の価値観で解釈するのには無理があろうとは思うけどね。


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