[原発関係]どうして意見の食い違いが生じるのか?

  • 投稿 : 2011-04-19
  • 更新 : 2013-05-11
原子力反対派、賛成派、容認派としてあげてますが、「原子力」をほかの似た用語にかえてみても成り立つと思います。

あなたが、原子力反対派だとして以下の条件で賛成派や容認派に説得を試みようとしますが、たいていの場合うまくいかないでしょう。

1.安全を確保するのは理論上無理である
2.安全を確保するには(現在の)技術上無理である
3.安全を確保するには経済的に無理である

1に関しては、いろんな考え(学説?)があるので水掛け論
2に関しても、いろんな考え(学説?)があるので水掛け論
3に関しても、コストの計算方法がいろいろあるので水掛け論


そもそも「安全」という基準についても違ってる可能性があるのでますます無理なのだと思います。

私が言ったのは「炉心溶融のリスクがある軽水炉は工学的には危険な技術で、リスクをゼロにするには、出力を数万kWぐらいに落として炉心溶融しても圧力容器が壊れない設計にすればいいが、それでは規模の利益がなくなって火力とコストで競争できない」ということである。つまり軽水炉でリスクを工学的にゼロにすることは可能だが、それでは原発は経済的に成り立たないので、すべてやめるしかないと言っているのだ。
via:池田信夫 blog : 私は原発推進派か - ライブドアブログ
そもそも1-3を相手と同意できたとしても、方向性を変えることはできない可能性もあります。

あなたが、原子力容認派、賛成派だとして反対派に「タバコを吸うのと同程度のリスク」だと説明したとします(それが事実だということにします)。

人間の感情というのは微妙ですので、
たとえば、タバコを吸うのと同程度のリスクであると説明されても
タバコを吸わない人は、もともとそのリスクがないのでそれと同じリスクを背負うのは嫌だと思うかもしれません。タバコを吸う人は、ただでさえリスクを負ってるのにそれと同程度のリスクを背負わないと駄目なんて嫌だと思うかもしれません。

リスクが同程度だからいうだけでは、そのリスクを加算されると考える人たちにとってはあまり意味がないことなのかもしれません。この場合は、タバコと違って選択する余地がないと考えられます。

選択して危険を回避できる可能性のあるものは容認しやすいですが、(事実はどうであっても)選択の余地がないと思われるリスクに関しては、やはり心情的に受け入れがたい人は多いのではないかと思います。

そもそも「リスク」という評価の基準が違う可能性が高いと思います。

経済学では、合理的個人が客観的真理を知っていることになっているが、これは実験結果とは一致しない。経済学者の政策提言が役に立たないのも、彼らが政治家や国民のバイアスに配慮しないで、理想主義的な「ゼロベース」の提案ばかりしているからだ。人々は現状を基準にしてそこからの変化率で考えるので、そういうバイアスに迎合して政策を売り込むマーケティングも必要だろう。
via:池田信夫 blog : バイアスに迎合するマーケティング - ライブドアブログ
無知や無理解が正しい判断を妨げてると信じてそれを正そうとしても不毛なこともあります。相手は、よく理解したうえでなおかつその立場をとっている可能性も高いのです。

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