抗議運動は、正しい手段で行わなければならない?

  • 投稿 : 2012-06-27
  • 更新 : 2014-06-25

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正しい手段での抗議運動

正しい手段で、抗議運動が行えるか?ということですね。
正しいというのが法律に違反しないとかいろんな定義があろうと思うんですが、そういう細かい部分はさておき、どうなのか?ということです。

もっと単純にいえば、迷惑になる行為をしないで、抗議活動が行えるかということなんです。
逆にいうと、抗議運動をするのなら迷惑にならない手段を用いないとダメだとかいう論理で、簡単に抗議運動を非正当化することが可能なわけです。

迷惑といってももちろん程度問題があり、線引きをどこでするかってことも重要なことだとは思います。

マイノリティな抗議運動

抗議運動の場合は、マイノリティな場合が多いという点も重要な要素です。
人数が多くても、立場的に弱いとかもあります。

留意点として、数としては少数でなくても、差別や構造により社会的に弱い立場におかれている場合には「マイノリティ」と呼ばれることがある。たとえば女性がマイノリティであるという主張は一般的である。逆に、数としては少数であってもその集団が比較的強い立場にある場合には「マイノリティ」と呼ばないことが多い。これの例としてはたとえばラテンアメリカ諸国における白人層を挙げることができる。
社会的少数者 - Wikipedia

抗議運動のやり方

ほんの少ししか共通項がなくても、一緒にやる場合もあるわけですね。それは、マイノリティがゆえに仕方がない面もあると私は思います。

ここで、抗議運動をつぶそうと思ったら、一部のほんの少しの部分だけを批判してすべてを叩き潰すことも可能なわけですね。

誰も傷つかないとかはあまりありえない

何事にも冷めた性質なので、デモという行為に対しても、そうとう遠くから、紗のかかった風景を眺めるような視線を持っていて、熱中する事が出来ない。去年の3月以来自分たちを取り巻く状況というのはあまりにもややこしく、何かの側に立てば別の何かを傷つけてしまったり、本来その何かと何かというのは傷つけ合ったりする性質のものではないはずなのに、それでも歯車は複雑にがんじがらめにからまってしまって、右を向こうが左を向こうが気持ちの良い正解は見当たらず、もういっそ、ただ笑ったまま、何もしゃべらずに黙っていたいな、とも考える。
2012-06-25 - 平民新聞
逆にいうと誰かが傷つくことを盾に抗議運動をつぶすことは可能なわけですね。
これは原発とかと関係なく、ほかのことでも同じなわけです。


現状維持や保守がなぜ良いように感じるのか

・変化がないということで、今までのメリット(利権)を失うことがないから
・現状維持や保守は、正当化するための論理が必要ないから
・口先だけで行動する必要が一切必要ないから


日本でのデモ運動

しかし、冷静に世界の民主主義の目に見える表現としてのデモを見比べてみよう。ニューヨークやロンドンやソウルで人々が路上で行うことができる表現が日本では行えず、もし、同じような行為をしようとしても、警察はデモ申請にたいして許可を出さないか、許可条件に反して路上を全面的に使用するようなデモを行えば、逮捕を覚悟しなければならないということは、いったいどのような論理によって、正当化しうるのだろうか?米国や韓国の人々がもっている自由をなぜ私たちは持つことができないのか?その理由は何なのか?理由などありはしない。それは、警察が抱く秩序への有無を言わせない従属の要求でしかない。これは、法治国家がとる振る舞いでは断じてありえない。
no more capitalism - 日本のデモに表現の自由はない
以前に、警察に届け出るデモ申請の書類?みたいなのをよんで、そこに書かれている内容では本当の意味でのデモ運動はなかなかしにくいだろうなと思ったことがあります。


抗議運動やそのやり方を批判する前に

抗議運動とは何なのか?、その抗議運動の手段が悪いとするのなら、ほかどういう効果的な方法があるのか?ということを考えてもよいのではないか?と思います。

本当は、いろんなことで苦悩すべき部分もあり、あまりにも物わかりが良くまた割り切りすぎている人たちをみると逆に心配です。これは賛成とか反対とかに関係ない部分でもあります。

また、自分自身の考えと違う抗議運動というものは迷惑度が大きく感じられてしまいます。ただ、そういう抗議運動を許容することも民主主義としては必要なのかもしれません。

※もちろん、テロとデモは違いますよ。


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